京都府と大阪府のほぼ県境にある山、天王山(山崎城跡)に行ってきました。
天王山といえば、天下分け目の天王山という名言はあまりにも有名で、例えば試合などでの大事な局面のときに使用される比喩ですよね。
この名言は、歴史好きな人ならみんな知るある合戦が由来だと言われています。もうお分かりですよね!
というわけで今回は、天王山を自分たちが実際に行ったルートなどを交えながらがっつり紹介していこうと思います!
天王山へのアクセス(行き方)・ルート、所要時間
天王山へのアクセスは、JR山崎駅もしくは阪急大山崎駅から行きます。
最寄りはJR山崎駅ですが、阪急大山崎とは一分くらいしか変わりありませんので、乗りやすい方を利用すれば良いかと思います。
今回、私たちが通ったルートはJR山崎駅から登っていきました。
まず現在地と書かれたところから坂を上り宝積寺を目指しす。宝積寺が天王山への入口です。
宝積寺を抜けると一本道ですので、ほぼ迷うことはないでしょう。
所要時間は駅からおよそ2時間。
ただし、私たちは宝積寺で40分ほど滞在していましたので、普通に行けば1時間30分ほどで天王山の頂上に到着するかと思います。
往復でおよそ3時間。人によってはそんなに掛からないかもしれません。
トイレは宝積寺にあります。
ここから先はトイレがありませんので登山前に必ず済ませておきましょう!
天王山での最大のおすすめポイントは、途中に通る旗立松展望台(後で紹介)から見る景色がとても最高ですので、ここは必ず押さえておきたいところ。
JR山崎から天王山の頂上を目指す! レッツゴー!
踏み切りをわたり終えると、上記地図の現在地という場所に着きます。
ここからが天王山へといたるスタート地点!
いきなり坂道からのスタートですが、気合い入れていきましょう。
道の途中に宝寺と書かれた石標がありました。宝寺とは宝積寺のことです。思わず「宝」という文字に心踊るのは私だけ?
スタート地点から登ることおよそ10分、宝積寺の仁王門前に到着しました。
日頃の運動不足がたたって、ただいま「ぜーはー、ぜーはー」言っております。さい先が不安。
宝積寺は聖武天皇の勅命を受けた行基が建てたとされる古いお寺。
戦国時代においては、羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦で、羽柴軍がここ宝積寺に本陣を構えたとされています。
今回は天王山が目的なので、宝積寺はまたの機会に書いてみたいと思います。
当初、登山口の場所が分からなかったのですが、お寺の人に尋ねると親切に教えてくれました。ありがとうございます!
こんな感じの道に出てきます。ちょっとした隠れ通路のようで、なんだかわくわくします。
少し歩くと、赤い屋根のような物が見えてきました。アサヒビール大山崎山荘美術館です。
天王山の山腹にある美術館。
建築家・安藤忠雄氏による建築物をはじめ多くの美術品が展示されているようです。
余力のある方はぜひ!
宝積寺から登ること18分、青木葉谷広場という所に到着しました。こちらで少し休憩。
こんな感じの広場です。人がいたので、全体を撮影できませんでしたが、ゆったりした場所でした。奥に行くと、景色を眺めることができます。
霞んでる······。 しかもスマホのカメラじゃこれが限界。まあ、絶景ではあるのだけれども。
へぇ、ここから大阪城やあべのハルカスが見えるんだ······霞んでいてよく見えないや。
目を凝らしてみてもやっぱり見えないな。
空がもっと澄みわたっていたら見えたのかな?
このような陶板画は、天王山のハイキングコースに六ヶ所設置されているようです。
作(解説?)に堺屋太一、画は岩井弘と書かれており全ては、羽柴秀吉と明智光秀にまつわる物語で構成されています。
場所は以下のとおり
1.天王山の山腹、アサヒビール大山崎山荘美術館付近の本能寺の変
2.ここ青木葉谷展望台の秀吉の中国大返し
3.旗立松展望台の頼みの諸将来たらずと
4.天下分け目の天王山
5.酒解神社の明智光秀の最後
6.天王山山頂の秀吉の覇権
全部で六ヶ所設置されています。
実を言うと、2~6番までは全部撮ったのですが、どういうわけか1番の【本能寺の変】に関しては撮り忘れました。
本能寺の変がいろんな意味で肝心なような気もしますが······何で撮り忘れたんだろう。
さ、気をとりなおして次へとどんどん行きますよ!
先ほどの青木葉谷広場から登ることおよそ15分。酒解神社の鳥居が見えて来ました。
この鳥居を潜り少し行くと
山崎合戦之地と書かれた大きな石碑が、どっしりと構えていました。
その近くには、一本の大きな松ノ木がそびえ立ち、脇には説明板が置かれています。
この松ノ木、旗立松という山崎の合戦に由来する松ノ木だそうです。
説明板によると、山崎の合戦のおり秀吉は天王山を駆け登り味方の士気を高めるために、この背の高い松ノ木に軍旗を掲げました。
それを見た秀吉軍は、一気に士気が上りそれ以降、光秀軍は総崩れになったと記されています。
この松ノ木は、初代から数えて5代目と書かれていました(今は6代目らしいです)。
ところで、上記の通り天王山を制圧したことで、戦局がガラリと変わったと言うのは、実は脚色ともいわれており(諸説有り)、史実とは少し異なるとか。
山崎の戦いを詳しく知りたい方は、こちらの記事がおすすめです(他のサイトに飛びます)↓
天王山の戦い(山崎の戦い) その3 合戦
旗立松の横には、木で作られた小さな展望台が建っています。旗立松展望台です。
さっそく登ってみましょう!
おぉ、なんという素晴らしい眺めだ! しかも、空が抜けるような青さに澄みわたっている!
遮る物が一切なく京都の街並みがよく見通せる。
うん、やっぱり盆地だな~。
各名称を示した大きな写真が置かれていたものの······見にくい。
と言うわけで自分の写真を加工してみました。
ちょっとごちゃごちゃとしてしまいましたが、だいたいこんな感じです。
ちなみに阪神高速8号京都線は第二京阪道路とも呼んでいます。
眼前に見える景色を俯瞰しつつ、武将の配置とを交互に見る。まさにこの展望台は戦国好きな人にとっては、たまらないスポットかもしれません!
展望台からおりて再び登山再開!
と、すぐの所に陶板画を発見! しかも2つ!
2つ目が【天下分け目の天王山】
一気に2つも見られてちょっとちょっと得した気分。
でもあれですね、登山が苦手な私でも山登り以外に目的があると、楽しく登山ができますね。
何かのついでに、好きなものを集める感覚? みたいな? ······とはいえ、コンプリート出来なかったんですがね······。
道標によると【十七烈士のお墓】で通るルートが近道と書いていますね。
じぁ、そのルートでのぼってみましょう!
おや? 倒木で道が塞がっている!?
気をつけながら木を跨いだり、しゃがんだりしつつ前にすすむ。
するとその先には······。
大きな木が十七烈士の墓に横たわるようにして倒れていました!
木に押され傾いている墓石もあります。
······これはひどい。
実はこれらの木は、2018年9月に起きた台風の影響によるものです。
近畿を中心に甚大な影響を及ぼした台風21号。
忘れもしません。
あの台風で家の窓ガラスが数枚割れましたから。
その飛び散ったガラスの破片は身体の至るところに刺さったり、掠めたりしました。
中には大きなガラスの破片も飛散していたことから、下手をすれば大惨事になっていた可能性もあります。
生まれてこのかた、台風が怖いと思ったのはこれが初めてです。
天王山に登ったのはその2ヶ月後の11月。
その爪痕はいまだ多く残っていました。
墓の上に横たわる大木を何とかしてどかしたいという気持ちは物凄くあったけど、やはり1人の人間の力ではどうすることも出来ません。
あれから3年が経ちますが、その後の天王山はどうなっているのでしょうか。
天王山の十七烈士の説明板。
下記によると
十七烈士の墓は、禁門の変(1864年)の時、戦いに敗れ天王山中で自刃した隊長真木和泉守以下十七名の眠る墓
【引用先】山崎観光案内所
真木和泉守の事を初めて知ったのですが(勉強不足なもので······)、江戸末期の激動な時代に生き、尊王攘夷派として幕府側と戦った方なんですね。
十七烈士の墓から歩くこと5分、酒解神社の近くのところで再び陶板画を発見!
今度は【明智光秀の最後】と銘打っています。
タイトルの通り、戦いで秀吉に破れた光秀がこの後どのような結末をむかえたのか書かれています。
文面の中~後半は光秀の功績を振り返り締めくくっています。
【明智光秀の最後】の陶板画からすぐのとこに酒解神社の外観が見えてきました。
正式名は自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)。
早口でいうと噛んでしまいそうな名前。
息子に早口させましたが、見事に噛んでいましたw
境内らしい敷地はなく、いきなり神社登場といった感じです。まあ、山全体が境内みたいなものなんでしょうが······。
主祭神は【大山祇神(おおやまつみのかみ)】
山の神様ですね。
説明板に書かれる由来は以下のとおり
その創建は奈良時代にまで溯るといわれ、平安時代の延喜式神名帳にも月次、新嘗の官祭を受ける名神大社であることが記されている。神名帳によると旧名を山崎社と称し、元正天皇の養老元年(七一七)建立の棟札があったという。
中世には山下の離宮八幡宮の勢力が強大となり、同社は山崎山(天王山)上に遷座し、山上の神はやがて天王社と呼ばれるようになり、山も天王山と呼ばれるようになっていった。
さて、今日同社には非常に珍しい重文の神輿庫が残されている。一般によく用いられる▷形の木を積み上げた校倉形式ではなく、厚さ約14cmの厚板を積み上げた板倉形式で建立されている。この板倉形式の遺構は非常に少なく、重文に指定されているものでは、奈良市内の春日大社にあるものが唯一であるが、それは江戸時代のもので新しく、現存する板倉としては当庫が最も古く非常に貴重な建造物である。
天王山という山の名前の由来が、酒解神社の昔の名である天王社から取ったものだったんですね。なるほど~。
酒解神社から再び登ること7、8分、天王山の頂上に到着! 頂上、つまりここが山崎城跡となります。ふぅ~、やっと着いたよ。
天王山山頂270.4メートルと書かれた標柱が立てられています。決して高くない山だけど感無量であります!
こちらは山崎城跡の説明板です。
羽柴秀吉は山崎の合戦後、ここにお城を建て本拠地とし半年ほど住んでいたそうです。
大山崎は城下町として賑わいをみせました。
政治利用として堺から千利休らを呼んで茶会を開いたそうです。
その時に使用された茶室が、妙喜庵にある国宝【待庵】です。
千利休が作ったといわれる日本最古の茶室だそうです(要予約)。場所はJR山崎駅前。
妙喜庵の待庵については、こちらに詳しく書かれています↓
山崎観光案内所
山崎城跡の概要図です。
これを見ると虎口や土塁、天守台、主郭などの位置が書かれています。
一応それらの遺構はあるようですが、一目には発見することができませんでした。というか、注意深く見ていませんでした(汗)。
せめて兵庫県にある竹田城跡のように、遺構がはっきりとした形で残っていればよかったのですが······(素人感)。
これは上記と同じ写真ですが、手前、人のいる広く平らな場所が主郭(本丸)。
右斜め前にある少し高台になっているところが天守台と思われます。
主郭を突き進むと、このように下におりられる場所が見えてきます。
下はこのように広い空き地のようになっています。
その一角に、四方を竹に組まれた囲いが目に入りました。
山崎城の井戸跡と書かれています。
地下水を汲み取るものではなく、雨水を貯めおくための井戸ではないかと説明しています。
井戸は完全に塞がっていて使うことができません。
天王山山頂の陶板画。
タイトルは秀吉の「天下人への道」はここからはじまったです。
山崎の合戦後、天下人へと上り詰めていった秀吉。彼がその後、どのようにして政治や文化を動かしていったのかが描かれています。
天王山山頂から見た景色。山、山、山。
山しか見えません。もしかして見たところが悪かったのか?
と言うことで、景色を見るなら途中の【青木葉谷展望台】か【旗立松展望台】がおすすめです!
天王山の登山の難易度
駅を出て、踏切を渡ったすぐの坂は若干きつかったものの、登山全体としてはそれほど辛く感じませんでした。
今回は息子(小学生)と一緒に山を登ったのですが不平不満が一言も出なかったくらいです。
ちなみに、小学生くらいの子供達をちらほら見かけました。
そう思うと、天王山は難易度は低く比較的に登りやすい山。初心者向けだと思われます。
終わりに
今回の記事も、中途半端感が否めませんでしたね(特に山崎城跡)······。
ところで、天王山は標高270.4メートルと低山の部類だと思いますが、運動不足の筆者でも意外と楽に登ることができました。
当然、小学生の息子は平気な顔でした。若さが羨ましい(笑)
以前登った、341メートルの交野山よりかは、はるかに楽だったように思います。もちろん交野山の方が70メートルほど高いですが、傾斜的なもので言うと天王山の方が緩やかなように思えます。
あと、なんと言ってもアレです!
・天王山の頂上にはお城跡があったり、戦国時代の歴史があったりして楽しい!
・各場所に散りばめられた陶板画を発見できる面白さがある(コレクション的な意味で)!
そういう意味で、天王山に登るためのモチベーションがそこにはあるんですね。
何度も言いますが、天王山は戦国時代好きな人にはたまらない山だと思います。【旗立松展望台】から見た眺望に、子供から大人まできっと熱くなるはずです!
あと、この記事では紹介していませんが、筆者はこの後【アサヒビール大山崎山荘美術館】や桜と紅葉で有名な【山崎聖天】に寄って帰りました。
両方ともおすすめですので余力のある方はぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
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